■臨済宗(大徳寺派) 神護山 芳徳禅寺 当山の沿革
神護山芳徳寺は、寛永十五年(1638)柳生但馬守宗矩が、亡父石舟斎宗厳の供養のため創建したもので、
開山は宗矩と親交のあった沢庵和尚、のち柳生氏代々の菩提所となった(江戸は下谷広徳寺)。
宗矩の死後まもなく、正保四年(1647)正月、将軍家光の内意によって、小柳生村の内二百石を寺領として付与され、
また、当時十一歳であった末子の六ツ丸が仏門に入ることとなり、大徳寺の天祐和尚のもとに預けられたのちに、当山の第一世となった。
列堂和尚義仙(1636~1702)はこの人である。
列堂時代の一山堂宇は宝永八年(1711)の大火で惜しくも失われたが、慶安四年(1651)飛騨守宗冬が亡父宗矩の
七周忌を前に京都の七条大仏師康看に命じてつくらせた宗矩公(西江院殿大通宗活居士像)と、
明暦三年(1657)列堂が同じく大仏師康春につくらせた沢庵和尚の像は厄をまぬがれ、
いまも本堂中央、本尊釈迦如来の左右の壇に安置されて、往時をしのばせる。
廃藩、そして正木坂陣屋の廃止後は荒れるにまかせ、明治の中ごろには、山門、位牌堂、
さらに、沢庵和尚の銘文を刻んだ梵鐘なども売り払われ、明治末年には、無住となって、さらに荒廃を重ね、廃寺の危機にさらされた。
ここに大正十年(1921)、尾州柳生の後裔にあたる柳生基夫氏は、亡兄一義氏(元台湾銀行頭取)の遺志によって、
多額の資金を寄進され、急転して本堂の復旧工事がすすめられ、ようやく寺運回復の兆しがみられた。
ついで昭和元年、橋本定芳が来往し、寺域の整備、建物の増築、さらには剣聖会の結成など、
もっぱら物心両面の復興につとめ、戦後は児童福祉施設成美学寮の運営、正木坂剣禅道場の建設など、
山内の面目を一新して今日に至った。
昭和四十七年一月二十四日、定芳遷化。贈名大徳東堂定芳和尚禅師。ついで橋本紹尚和尚、住職となる。
平成四年本堂と柳生家墓所が奈良市文化財に指定され、それを機に始まった本堂解体修理も平成八年に完了し現在に至る。
|